徳島県南部、太平洋に面した海部郡海陽町(旧海南町)の「大里の松原」です♪
ちょうど一年前になります!!
私は125ccのスクーターで、徳島県北部の吉野川市山川町から、南部の海陽町までツーリングに出ました♪
目的地はここ「和奈佐意富曾神社」です♪
林博章著「倭国創生と阿波忌部」より
県南部の海部(かいふ)郡は、『和名抄』に那賀郡海部郷とあり、海部(あまべ)族の一大拠点であった。
紀伊国海部郡、隠岐国海部郡、尾張国海部郷、丹後国熊野郡海部郷、筑前国怡土(いと)郡海部郷、信濃国県小郡郡海部郷、越前国坂井郡海部郷などは「アマベ」と読ますのだが、阿波だけは海部『加伊布』「カイフ」と訓ずる。
この海部(かいふ)郷には、那賀郡条に見える式内社「和奈佐意富曾(わなさおおそ)神社」が海部郡海陽町大里(旧海南町)に祀られている。
社名の由来は、「和奈佐」に坐す「意富曾」、『徳島県史』は「意富曾」を
「大麻」の意味とする。
それは、「夏麻(なつそ)」「真麻(まそ)」「打ち麻(そ)」の事例のように麻をソと読ます場合があるためで
祭神も『徳島県史』『大日本史』は[大麻比古神]であると推定、内務省の『特選神名牒』も「大麻神」とする。
この海部郡海陽町海部「芝遺跡」には、弥生終末期の鮎喰川流域の土器や鍛冶遺構も検出され、
吉野川流域に勢力圏をもった忌部・阿曇族との強い関係が察しできる。
従って、ワナサオオソ神、すなわち大麻比古神・大麻神は、その航海力をもって日本海側の石見・出雲や丹後にも進出したのだ。
とあります。
島根県松江市宍道町上来待和奈佐。
「和奈佐神社」です♪
ワナサオオソ神は、阿波より「和奈佐比古」の名を携え、日本海から宍道湖、斐伊川、玉湯川などを遡上して出雲にも進出していた。
宍道湖南岸の出雲玉作の本拠、玉湯町を流れる玉湯川の上流が宍道町なのだが、松江市宍道町上来待和奈佐には、標高282mの和奈佐山が聳え、その麓には和奈佐比古を祭神とする「和奈佐神社」が祀られている。
なんと「地神塚」がありました♪
阿波の影響があった証拠と私は考えています♪
近くには忌部神社があります。
もちろん「地神塚」はあります。
そして「八俣の大蛇」の伝承のある奥出雲の神社にも「地神塚」は祀られていて、この斐伊川流域は阿波との関係が深かったと思っています♪
「船林神社」です♪
松江市忌部町を流れる忌部川上流部より雲南市に入れば、素戔嗚尊の八岐大蛇神話の舞台となった「須賀神社」や「八雲山」がある。
その「須賀神社」付近を流れる須賀川を下れば、斐伊川支流の赤川が西流している。
その北岸には小丘陵の船岡山があり、山頂には阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)を祭神とする「船林神社」が祀られている。
同社は『出雲国風土記』「大原郡」条に見える
「船岡山、郡家の東北のかた一十九里一百八十歩なり。阿波枳閇委奈佐比古命、曳き來居ゑましし船、即ち此の山、是なり。故、船岡といふ。」
の舞台で、この阿波枳閇委奈佐比古命とは、
阿波から来たワナサヒコ神の意味であった。
『折口信夫全集』(「水の女」、『折口信夫全集・第二巻』所収)には、
「出雲のあはきへ、わなさひこなる社の名である。阿波から來経ー移り來て住みついーた事を言ふのだから」とある。
『出雲風土記研究』(加藤義成)は、「神名は、粟(阿波)來経和奈佐日子命の意で、今の徳島県(阿波)の国から来り巡って、現在の八束郡宍道町の大字和奈佐に静まられた彦神、即ち男神である。」と解釈する。
ここにもしっかり「阿波」独特の「地神塚」がありました♪